2016-02-25

特攻隊員たちの表情/『今日われ生きてあり』神坂次郎


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編

 ・特攻隊員たちの表情
 ・千田孝正伍長
 ・鉄ちゃんのうどん

『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ

 とめさんは健在であった。81歳。でっぷりと肥(ふと)って、そのためか足の痛みがひどく歩行も不自由らしかった。それでもとめさんは、訪ねて行ったわたしたちのために、杖(つえ)をついて奥座敷まできてくれた。
「ゆう、おさいじゃしたなぁ」
 とめさんは、不作法を詫(わ)びながら畳の上に痛む足を投げだし、あのころの隊員たちの表情を、一つひとつなぞるように話してくれた。
「僕が死んだら、きっと蛍(ほたる)になって帰ってくるよ」
 そう言って出撃した宮川軍曹(ぐんそう)が、翌晩、1匹の“蛍”に化(な)って飛んできたというのは、この左手の庭の泉水のほとりであった。第七次総攻撃に進発した朝鮮出身の光山少尉(しょうい)が、出発の前夜、とめさんにねだられて低い声でアリランの歌を唄(うた)ったのは、次の間の柱のところであった。光山少尉はその柱にもたれ、軍帽をずりさげて顔をかくすようにして唄っていたという。
「僕の生命(いのち)の残りをあげるから、おばさんはその分、長生きしてください」
 そう言って、うまそうに親子丼(おやこどんぶり)を食べて出撃していった一人の少年飛行兵のことを語ると、とめさんは、あの子のおかげで私(あた)ゃこんなにも長生きしてしもうた、と涙をにじませた。

【『今日われ生きてあり』神坂次郎〈こうさか・じろう〉(新潮社、1985年/新潮文庫、1993年)】

 その純粋と待ち受ける悲惨の狭間(はざま)にあって彼らは臆することなく矛盾を生きた。以下のページに遺影と詳しいエピソードがある。

「特攻の真実と平和」板津忠正
ホタルになった特攻隊員(宮川三郎軍曹)

“特攻の母”鳥濱〈とりはま〉トメは89歳まで生きた(1992年没)。



 沖縄という犠牲があり、特攻隊という犠牲があって、本土は守られた。やがて敗戦の精神的空白にマルクス主義が浸透する。その勢いはいよいよ盛んになり、1960年代から70年代に渡る安保闘争で頂点に至る。当時、自衛隊は日陰者として扱われた。戦力放棄を謳った戦後憲法の下(もと)で自衛隊員は公務員と位置づけられた。決起を呼びかけた三島由紀夫に対して、自衛隊員が野次と怒号で応じた時、特攻の精神は死に絶えたのだろう。

今日われ生きてあり (新潮文庫)

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